友達の話
先日最初の職場の関係で仲良くなった友達と、半年ぶりくらいに遊んだ。
その子の友達で以前遊んだこともある人も一緒で、3人だった。
そのふたりはちょくちょく連絡を取り合い、ご飯に行っているようだった。
以前は同業だったがお互い転職して、今はまったくちがう業界の人間になったのもあり、付き合う人もだいぶ変わった。
特にそのよく遊んでいる人の影響で、男性との付き合い方が劇的に変わった気がする。どちらかというと嫌な意味で。
パートナーがいる中で他の男性複数と関係するような、そんな感じだ。
まぁ、私の人生に影響はないしやめたらと言われてやめられるものなら最初からしていないのだろう。
不道徳という意味では自分のほうがよっぽど、ということもあるから口出しするつもりはない。
けれど奔放な友人の存在が、少なからず彼女の行動を助長しているような気もする。
久しぶりに会った彼女を見て、すこし距離を置こうという気になった。
友人って、毒にもなれば薬にもなる。
願わくば、彼女の周りに薬になるような人がいてくれますように。
テレビの話
テレビの地方特集なんかで、現地へ行った芸能人が様子を聞かれた際、お決まりのセリフがある。
「現地の人がみんなあったかくていい人でした!」
こういうセリフを聞くたびに、『そりゃそうだろ』と思わずにはいられない。
だってテレビの取材でしかもそこそこ有名な芸能人がきているんだもの。そりゃいい顔するだろうよ。
べつにそういう番組を穿った目で見続けているわけではない。
現地の人との会話をおもしろく聞いているし、行ってみたいなと思わされる。
強いていうならグルメ番組はほとんど信用していない。穿りまくった目で見ている。
数年前鮭の中でも貴重とされる幻の鮭、鮭児がテレビで取りざたされたことがあった。
これを食べてる芸能人たちは「おいしい~!」「口に入れた瞬間とろけるぅ~!」「ふつうの鮭と全然ちがう!」と口々に言っていた。
そんなにちがうのか、さぞおいしいんだろうなぁと私はときめくような気持ちで番組を見ていた。
その後、たまたま鮭児を食べる機会があった。
これが幻の鮭か!どんな味なんだろう!とわくわくした気持ちで一口食べて…
『ふつうのサーモンだ』
それだけだった。多少脂が多いというぐらいだろうか。
私が口にしたものとテレビ番組に出ていたものでは、品物のグレードがまるでちがうのかもしれない。
でも『とろける』とか『ふつうの鮭と全然ちがう』とか、まるでなかった。ふつうにおいしい鮭だった。
かくして、私の鮭児への憧れはあっけなく崩れ落ちていったのであった。
あくまで番組を盛り上げるためのコメントだったんだろうけど、視聴者の期待を過剰に煽るのはやめてほしい。
旅先の人の温もりも結局はテレビであり芸能人(有名人)ありきのもののはずだし、口の中に入れた瞬間とろけるのはアイスクリームかオブラートくらいなもんだ。
仕事の話
前の職場で、元バーテンの女性がいた。
都内の一等地にある高級なバーに勤めていたらしい。
飲食業に興味があり、そういった専門学校に進み卒業後はそのバーに就職したそうだ。
そのバーはとても格式が高いので、先輩にもかなり厳しく仕事を教えられたと言っていた。
「入社した日にトイレ掃除を済ませた後先輩に呼び出されて、『おまえこのトイレ舐めてみろ。できないだろ?だったら掃除やり直せ。自分で舐めても大丈夫って思えるまで掃除しろ』って言われるぐらい」というエピソードを、誇らしげに語っていた。
そのときのことは今でもよく覚えている。
彼女のテンションと私のテンションがあまりに違いすぎたことを、だ。
物の例えというのはわかる。べつにその先輩も本気で言ってるわけではないのだろう。
だけど私は、入ったその日の新人に、「トイレを舐めてみろ」なんていう人、先輩としてぜったいにすきになれないと思う。
伝え方があまりに乱暴だ。
けれど彼女はその乱暴さや厳しさを誇りだと思っているのだ。
常々、『仕事は過酷であればあるほど尊いものだ』という風潮を強く感じてきた。
お国柄なのかもしれないが、海外で仕事をしたことがないので、もしかしたら世界的にもそうで私が無知なのかもしれない。
それはひとまずおいておいて、仕事って過酷でないといけないのだろうか。それって変じゃないだろうか。
以前にも自分の勤めている職場がいかに過酷でその労働環境に苦しめられているか嬉々として語っている人がいた。
私がべつの事務所の先輩に職場での不満や疑問を語っていたら、横から「うちなんてもっとひどいですよ!」とくるのである。
残業時間の長さ、社長の横暴さ、有休所得の難しさ、いかに性格の折り合いのつかない同僚がいるか、などなど…
そんな環境でもへこたれずにがんばっている自分はすごい、そういう等式なのかもしれない。
だけどやっぱり釈然としないのだ。
会社というのは8時間労働だとしても、睡眠時間を除くと自分の生活の半分かそれ以上を過ごす場所である。
そこが厳しくてつらいって、ぜったいにマイナスでしかない。
退職までの相当な年月をひたすら耐えなければいけないなんて、ざっくり言って地獄だろう。
べつにミスを見過ごせばいいとは思ってない。間違いがあるなら正すべきだし、厳しくする場面も必要だろう。
でもやみくもに厳しいことを良しとする風潮が気持ち悪いと思うのだ。
厳しくてつらい環境は変えた方がいいに決まっているし、多くがそうであるようにその職場がそう簡単に変えられない場所であるならば自分が変わる必要があるはずだ。
その形は様々だけれど。
私も仕事はとてもすきだったけれど職場の人と決定的に合わなくなり転職したクチだ。
それは堪え性がないからだと笑う人がいるかもしれないが、私は8年間その職場で踏ん張った。
最後のほうは体調に影響が出るほどだった。
けれど身体を壊してまで、頑張り続けるほど仕事や職場って大切な場所なのだろうか。
自分の健康な身体や健全な精神を差し出すほどに?
仕事に限らず『厳しい自慢』を聞くたびに、やっぱりその疑問が頭に浮かぶ。
『厳しい』=『えらい』という価値観が一般的でなくならないかな。そうすればもうすこし、生きやすい世の中になる気がするのに。
家族の話
一人暮らしが長くなると、家族といる時間が短くなる。
私も一人暮らしをはじめてかれこれ6年目だ。実家の両親とは月に一度会えばいい、というくらいになった。
同僚や友達とも仲が良く、長年付き合ってる人もいるが、やっぱり家族と他人は決定的にちがうな、と思うことが先日あった。
去年、小学校時代の友人が結婚した。
母親も知っている子だったので、今度結婚式に出るという話をした。
そのとき母は私にこう言ったのだ。
「周りはどんどん結婚して行くのに…(あんたは)売れ残ったわね」
私は今年で32歳になる。
確かに周りにいる友達はほとんど結婚をしているか、結婚を控えている人ばかりだ。一度したけど離婚した、という人もいるけれど。
事実結婚の波に乗り遅れたし、もう若いと言える年齢ではないだろう。それは間違いない。
けれど、だからこそ、「それを本人に言うか!?」という、かなりの衝撃があった。
「ひどいこと言うね!」と笑って流したが、その言葉が出るのにちょっと時間がかかったほどだ。
私自身結婚願望はそこまでないし、母には真剣味が感じられないから軽口のつもりで言ったのかもしれない。
それでも私がそこそこ婚活をしているのを母は知っていたはずだ。結婚願望が強くなくとも、結婚したくないわけじゃないことも。
それなのに正面切って本人に言うなんて、まぁデリカシーというか気遣いがないと思う。
でもきっと、ずっとそう思ってたんだろうなとも思った。
そしてそういう言葉が出てくるのは、やっぱり家族だからなのだろうなと感じた。
よっぽど思いやりがない人ならともかく、他人にそんなこと言う人はまずいないだろう。
もしかしたら単純に、世代的なものかもしれないけれど…
家族と離れている時間が長くなるにつれ、同僚も友達も恋人も、結局は他人とばかり過ごすようになっていた。
気ままで楽しい独身生活は、同時に周りの他人の思いやりで成り立っているのかな、と思った。
家族は大事だが、とても近い存在な分、もしかしたら他人よりもずっと付き合い方が難しいのかもしれない。
ゲームの話
先日リリースされたスマホゲームを、配信当日からやりはじめた。
事前登録していて、とても楽しみにしていたゲームだ。
チュートリアルを見つつ進めているが、最初はわけがわからず困惑したものの、開始5日目だろうか。ようやく要領を得て楽しくなってきた。
ここのところはもっぱらそのゲームばかりしている。
自動プレイもできるので、画面を開きつつべつのことをしてることも多いけれど。
新しいゲームを手に入れると前のゲームをしなくなることが多い。
スマホを変えたのをきっかけに、3つほどゲームを消してしまった。
4月にも事前登録しているゲームが配信されるので、またこれがきたら手が止まるかな。
とはいえ通信規制もあるし、全部を全部全力でやるというのも限界があるからいいのだけど。
そうそう、最近のスマホゲームはとてもレベルが高くなったと思う。
FFのCGみたいに、スムーズにキレイな映像が動くので驚いた。声優さんも豪華だ。
無料ゲームの質が上がることで楽しい時間を気軽に味わうことができる時間が増えて嬉しい反面、その業界がそれでやっていけるのかどうか、若干不安ではあるけれど…
掃除の話
掃除がキライだ。
掃除のあとのキレイな部屋は清々しくて大好きなのだけど、掃除することはとてもキライだ。
だって一週間後には同じくらい汚くなるのに、なんで毎週、毎日のように掃除しなくちゃいけないんだ!?となる。
そんなわけで私の家はそんなにキレイではないのだけど、とりあえず付き合ってる人がそこはあまり気にしないのでとてもありがたい。
世の中には毎日掃除をして毎日洗濯をする人もいるらしい。
毎日洗濯機を回しバスタオルからハンドタオルからキッチンの手拭きタオルから全て洗濯し、翌日はちがうものを使うのがふつうだとか、たまに聞くこともある。
純粋にすごいなと思うし女性としても憧れる。
掃除はすきではないけど、べつに不潔でいいとも思ってないし、やっぱり毎日新しいもののほうが清々しいんだろうなとは思う。
でもそういう全てが新品のような清々しさは、旅先のホテルでいいかな、とも思う。
実家が田舎にあるので敷地も大きいし自動的にお風呂も大きい。
そのおかげで旅先の温泉の楽しさが半減した。
だって実家にいるほうが明らかに快適で便利で居心地が良くてお金もかからないのだから。
そういう意味では多少普段の性格で怠けてるほうが、旅先のホスピタリティや非日常感も感じられていいのかな、なんて。
掃除をしたくない言い訳かな。
子どもの頃の話
3月も目前になり、春が近づいてきた。
近所の沈丁花が綻んでいたので、においをかいでみた。
あまずっぱくて懐かしい香り。『あぁ、春だなぁ。』そう思った。
三寒四温とまではいかないけど、三寒二温くらいにはなってきたかな。
つくしを見るのが待ち遠しい。
私は小学生時代、学童に通っていた。保育園も市外の民間のところに通っていたので、幼馴染のような存在が近所にいなかった。
学校での友達はいたけれど、3年生まではずっと学童にいたので、放課後友達と遊ぶということがあまり定着してなかった。
そんなわけで、学童を卒業してからは、週に3回習い事をしていたのだけど、それ以外の日はとても暇だった。
テレビを見たり、ひとり遊びしたりには限界があった。
とはいえお金もない、遠出するにも方向音痴故に土地勘がない。そのため、近所の原っぱで遊ぶことがほとんどだった。
私が当時住んでいたのは集合住宅で、棟ごとに庭がついていた。おもしろいもので、棟ごとに庭もすこしずつ違っていた。
だだっ広いただの原っぱが庭の棟、実のなる植物が生えている庭の棟、庭がない代わりに公園が面している棟、小ぶりの木がいくつも生えている庭の棟、庭が鬱蒼とした針葉樹林に囲まれている棟。
その中のひとつに、日当たりが良くてつくしがたくさん生える庭があった。
団地に住んでいる他の人は滅多に取らないので、当時の私はその伸び放題のつくしを無心でとり、袴を取り、炒めたり卵とじにしたりして、夕飯に並べていたものだ。
つくしに限らず、むかごやのびるをとるのもすきだった。庭のどこに食べられる木の実があるかも知り尽くしていた。ゆすらうめや桑の実、キイチゴ。道はたいてい、植えてある木やそこに生えている花で認識していた。
ただ、春が過ぎるとその庭はただの原っぱになってしまうので、私は主に木のたくさん生えた庭にいた。
その庭には芝の他にクローバーも生えているのだけど、四つ葉のクローバーがわんさか生えるスポットがあったのだ。
四つ葉にとどまらず、五つ葉六つ葉もごろごろ見つかるので、無我夢中で探した。見つけたものは家の広辞苑で押し花にして、イラストを描いて一緒に貼り付け、ブッカーでしおりをつくって家族や友達にあげていた。
なにより、見通しのいい原っぱは一人で遊んでいるのが目立つから、その庭の木に登って隠れて遊ぶのだ。建物自体も端にあったし、庭が建物で隠れていて周りから見えないのも居心地が良かった。
木に登って、その上でマンガを読んだりお菓子を食べたり昼寝したりしていた。春先や秋は木の実がなるので、近所でしこたま集めて周り、木の上でもくもくとひとりで食べていた。
アクティブなのかインドアなのか…今思えば変な子どもだったと思う。
さすがに冬は自分の家で遊ぶことがほとんどだったが、春になると団地の庭に繰り出した。
私の住んでる市の花が桜で、団地に限らず市のそこここに桜が植えてあるのもよかった。
春になるとその花を見ながらうとうと昼寝をするのが本当にすきだった。
スーパーファミコンやゲームボーイがわりと当たり前になっていた時代なので、そういう遊び方をする友達は近所にいなかった。
たまにおもしろがってついてくる友達もいたけれど、私がしていたような遊びは数回もしないうちにたいてい飽きられるものらしい。
私もお小遣いやお年玉を寄せ集めてゲームボーイカラーを買ったことがあったけれど、やっぱり家の中ではなく木の上でやっていた。
ほとんどの時間をひとりで過ごしていた子ども時代だったけれど、不思議なもので寂しかったという記憶もあまりない。
することがなくて仕方なく原っぱで遊んでいたのではなく、もともと自分はそういう遊びがすきで近所の庭をまわっていたんだろう。
今でも街中で子ども時代お世話になった植物を見ると、つい近寄っていってしまう。
よく自然が友達なんていったりするけど、私にとってはまさにそれなんだと思う。
もうすぐだいすきな春がくる。つくしを見るのが待ち遠しい。